U's aquarium.
〜水のある生活〜
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Diary お魚日記くらげ日記
Essay #1 #2 #3 #4 #5 #6 #7
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− E S S A Y −

I
N
D
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X
第1話  はじまりは突然に
第2話  トロピカル・マリン・アクアリウム
第3話  崩壊
第4話  飽くなき欲望
第5話  再始動
第6話  またもや崩壊
第7話  新型登場

まりは突然に

 ひとりベッドに寝転んで、彼は空を見ていた。どこまでも高く透明な蒼い大気は、季節が確実に秋へと巡りはじめたことを予感させる。レースのカーテンが、ふわっと揺れた。

 地上6階、南向き。会社の独身寮群の中でも、一番新しい建物の一角が彼に与えられた部屋だ。6畳一間に、安っぽい作りの机と椅子、洋服ダンス、それにベッドが最初から備え付けられていた。エアコン完備、電話線もある。悪くない。彼があとから持ち込んだ物といえば、オーディオラックとTV、ちょっと奮発してスライド式の本棚。そして、最近買った小型のタンス。
 寮は、広大な会社の敷地に組み込まれていて、平日は会社敷地から一歩も出ることなく生活が可能だ。仕事は忙しく、寮の部屋には、まさに寝に帰るだけといった感じの日々が続いていた。それでも、希望通り宇宙開発のセクションに配属された彼は、国際宇宙ステーション日本モジュールJEMの担当ソフトウェア開発に没頭していた。小さい頃から宇宙に興味があった。ただそれだけの理由で就職先を決めた彼にとって、仕事がすべてにおいて最優先事項だったのだ。
 しかし実際の仕事は夢で語れるほど甘くはない。開発スケジュールの遅れに伴う理不尽な開発期間の圧縮、仕様の変更につぐ変更、上流部門のソフトウェア開発に対する無理解など、障害はそれを取り除くごとに、数を増して現れてくる堂々巡りの恐怖だった。目に見えぬストレスが、彼の心身ともに食らい尽くしているかのようであった。
 1993年9月、彼はストレスに屈した。ドクターストップにより、1ヶ月の休職が命じられたのである。

 平日の寮は、静寂に包まれている。「仕事のことはしばらく忘れなさい」と、主治医は彼に言った。だが、会社敷地内にある寮で孤独を味わえば、どうしたって会社の事を考えてしまう。彼はベッドから身を起こし、部屋を眺めてみる。殺風景だ。改めて、そう思う。その時、ふいに彼は決心していた。「水槽を置こう」。
 なぜそんな昔の新聞チラシの事を思い出したのか、理由は彼にもわからない。ただ、なんとなく覚えていただけのような気もするが、じつは重要な意味があったのかもしれない。でも今は、そんなことはどうでもよい。彼はクルマのキーを持って、部屋を出た。チラシには「海水魚専門店オープン!」と書いてあったはずだ。
 彼は小学生のころ、川や池で釣ったり捕まえた淡水魚を飼っていたことがある。夜中に、水槽のライトだけをつけて、暗闇にぼぉっと浮かび上がる光景に、ずっと見とれていたこともあった。水中をゆらゆら漂う魚達の、なんともいえない浮遊感は見ていて飽きることはなかった。海岸の潮溜りで捕まえたハゼなどの海水魚も飼った覚えがある。熱帯魚と出会ったのも、その時期だ。結局4つほどの水槽でいろんな魚を飼っていたが、中学生になる頃には水槽はいつのまにかすべてカラになっていた。
 かなり以前のチラシだったため記憶も曖昧になっていたが、そこに載っていた地図を思い出しつつクルマを走らせる彼の頭には、この時点で明確な「海水魚専門店」のイメージは、なかった。なぜ熱帯魚ではなく、海水魚でなければならなかったのかも、謎である。ただ、あのチラシが妙に気になっていただけだ。
 通称16m道路を岐阜市に向かって西へ。彼は左側の建物の看板に注意しながら、やや速度を落としていた。もうかなり走っている。このままでは岐阜市に入ってしまうのではないか?行き過ぎたかもしれない・・・そう思いはじめたころ、目の端に小さく「海水魚」と書いた看板を捕らえた。迷わずクルマを駐車場へ。
 2階建てのビルだった。すべてテナントで埋まっている。駐車場が広いのは、2階の居酒屋のせいか?1階には、携帯電話屋、ジーンズ屋、そして一番右端に、目指す「海水魚専門店」が、こじんまりと、あった。「パラオ2号店」とネオン看板が掛かっていた。
 入り口のガラスドアを前にして、一瞬だけ彼は躊躇した。ここから先は未知の領域。3秒迷って、彼はドアを開けた。

 海水魚は、その名のごとく海に住む魚のことだ。そんなことは彼も頭では漠然と理解していたにちがいない。TVに映る珊瑚礁の水中撮影で目にする色彩鮮やかな魚達。あるいは水族館の巨大水槽で乱舞する回遊魚。いわば特殊な場所に行かなければお目にかかれない魚。そんなイメージがある。だから、海水魚を売っているというのが、いまひとつピンとこない。しかし・・・
 入ってすぐの所に、人の背丈よりも高い位置まである大きな水槽があった。水面に何か大きな丸いものが浮いている・・・・海亀だ!海亀が泳いでいる。「こんなものが飼えるのか!?」正直、彼は驚いていた。海亀のインパクトの強さに負けて最初気付かなかったが、その水槽にはまさに水族館と同じ様な色鮮やかな熱帯の海水魚が乱舞していたのである。しばし、茫然とその水槽に見とれていた。
 「いらっしゃい!」奥から店長登場。まだ30代と思われる若い顔立ちをしている。
 店長に向かって彼は、思わず話し掛ける。「海水魚って飼えるんですか!?」
 海水魚専門店で「海水魚が飼えるか?」という質問も、かなり滑稽である。しかし、それほど彼は衝撃を受けていたのだ。珊瑚礁の魚が、まさに目の前で泳いでいるという事実は、ある意味でカルチャーショックだった。ここには自分の知らない世界がある。そう感じていた。
 「うん、飼えるよ」と店長はにこやかに応え、店の奥に整然と並んだ水槽群を見て、「あっちの水槽も見てみる?」と言った。彼は、うながされるまま奥の水槽を見てまわった。美しい。色彩の多様さもさることながら、その形態も彼を魅了した。淡水の熱帯魚が、いかにも魚!といった感じなのに対して、珊瑚礁の海の魚は、生きている宝石とでも形容できるだろうか。「こんなのも飼えるよ」と店長が指差したそれは、イソギンチャクでもなく、触手があって・・・・・・そう、珊瑚だ。生きた珊瑚までが水槽に入っていた。メタリックグリーンの蛍光色が幻想的だった。彼は久しく感じたことのない高揚感に身体が熱くなるのを感じる。
 渇きを癒してくれる。そう彼は思った。

 「どのサイズの水槽にする?」店長は言った。彼は飼育セット一式を購入することにしたのだ。タンスの上が空いてるな、と思い、「このぐらいのサイズまでなら・・・」と彼は腕で一抱えほどの大きさを示してみた。「90cmくらいならOKか〜・・・大きいほど最初は飼いやすいけど、値段がねぇ」と店長が言うので、いくらくらいかと聞いてみた。答えは、たしかに60cm水槽などとは比較にならない値段だった。しかし、60cm水槽は、ちょっと見劣りがするような気がした。しかも彼は海水魚飼育初心者である。できれば飼いやすいという90cmの大きい方の水槽にしたい。幸い、資金は十分にあった。「90cmでお願いします」彼は言った。
 「ガラスでいいよね?」と、言うので「ガラスの他にも水槽ってあるんですか?」と聞いてみる。アクリル水槽というものもあるらしい。しかし、90cmサイズなら、ガラスの方が安いのだそうだ。ガラスでいいや、と彼は思った。次に濾過槽。上部濾過という方式がお手頃と言われた。彼はそもそも生物濾過の仕組みについて知らなかったので、ここで店長からじっくり説明を受ける。小学生のとき飼っていた水槽では、一応底面濾過装置をつけてはいたが、その頃は物理濾過の事しかわかっていなかった。あれはゴミを漉しとるだけではなかったのだ。ふみふむと納得した。海水用の濾過槽は、淡水用のそれに比べて倍以上の大きさがある。つまり海水魚飼育では、それだけ生物濾過が重要だということだろう。
 次に濾材。サンゴ砂が安くていいよと言われた。彼は人工の濾材の値段も一応聞いてみたが、1リットルで約4000円というので、諦めた。上部濾過槽には20リットルの濾材がラクに入りそうだったからだ。その代わりと、種砂なるものを買うことにした。生物濾過に必要なバクテリアが、すでに繁殖しているサンゴ砂だ。1kgで1万円とのことだったので、2kg購入することにした。これで水槽の立ち上がりで失敗することは、たぶんないと言われた。なにしろ彼は初心者なのだ。できれば簡単に飼える方法を選びたかった。種砂とあわせて、新しいサンゴ砂を濾材に選んだ。
 魚には隠れ家も必要だと言うので、サンゴ岩も物色する。1kgで1000円という、はかり売りのようで、大きなサンゴ岩ほど値段も高くなる。店長みずからレイアウトの構想を示してくれたので、イメージがわいてくる。ここはプロの意見を尊重して、店長に選んでもらったサンゴ岩を3つほど購入することにした。なるほどたしかに岩組みはしやすそうだった。
 あと重要なのは海水だ。普通は人工海水の素を買って、自分でバケツなどで真水に溶かして作るらしいのだが、彼は大きなバケツを持っていなかった。「バケツ買ってきます」という彼に、店長は「いいよ、今日はうちで作った海水あげるから」と、ポリタンク8個分の海水を用意してくれた。こうして彼の水槽セット一式は、かなりの荷物になってしまった。温度計やらヒーターやらの小物類も入れて、しめて17万の買い物である。

 店と寮を2往復して、すべての荷物を運びこんだ。90cmの水槽は、うまい具合にタンスの天板と、ぴったりの大きさだった。なんたる幸運。水槽を置いたら、次は海水をポリタンクから移す作業だ。これが結構重労働だった。20リットル入のポリタンク8個を車から6階の彼の部屋まで移動させ、さらにタンスの上に置いた水槽まで持ち上げなければならない。日頃の運動不足を後悔する。それでもなんとかすべての装置をセットし、いよいよ電源を入れる時が来た。動くのか?彼はどきどきしながら、コンセントにプラグを差し込んだ!・・・・ブゥゥゥゥゥンというモーター音が聞こえ、やがて濾過槽から水が落ちてくる。成功だ!さっそくライトも点灯させる。まさに輝く水槽がそこにあった。純白のサンゴ岩が、殺風景だった部屋の中に、自然を切り取ってきたかのような印象を与えた。背筋がぞくぞくするような快感だ。“買ってよかった”心から、そう思った。


第2話 トロピカル・マリン・アクアリウム に続く...


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